Se connecter救急入口の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが肺の奥まで入ってきた。
白い床に、靴音が薄く跳ねる。 車を降りる時、膝の上に落ちていた包み紙が床へ滑った。拾おうとした指が、うまく動かなかった。「そのままで」 律が短く言った。 私は返事をしないまま、バッグだけを掴んだ。相良さんが後ろで何かを拾う気配がしたけれど、振り返れなかった。 受付の横にいた看護師が、こちらを見るなり歩み寄ってきた。「朝霧さんですね。田辺です」 何度も祖母の病室で見た人だった。いつもは少し柔らかい声をしているのに、今日はその柔らかさを仕事の顔で抑えている。「主治医から説明があります。こちらへ」「祖母は」 言葉が先に出た。 田辺さんは足を止めなかった。「今は、処置のあとで落ち着いています。ただ、かなり厳しい状態です」 落ち着いている。 厳しい。 二つの言葉が並んでも、意味がうまくつながらない。 廊下の角を曲がる。そして、静かに時刻を告げた。 祖母の手は、まだ温かかった。 それが、いちばん残酷だった。「……おばあさま」 呼んでも、返事はなかった。 私は泣き声を出さなかった。 声を出したら、手を離してしまいそうだった。 白い壁に、午後の光が薄く広がっていた。 琴美が崩れるように椅子へ座り込む。隆一はベッドの足元に立ったまま、唇を動かしていた。何か言おうとして、何も出てこない顔だった。 律は、扉の外にいた。 約束通り、入ってこなかった。 私はゆっくり祖母の手をシーツの上へ戻した。 指を離すまで、何度もためらった。 田辺さんが、白い布を用意する。 その布が祖母の顔へ近づき、私は反射的に声を上げた。「待って。まだ、隠さないで」 声が出た。 みんなが私を見る。 私はバッグから守り袋を取り出した。保全袋の中に入れたままだから、直接は触れない。けれど、その色だけは祖母にも見えると思った。「これを、見つけました」 祖母にはもう見えない。 それでも、私は言った。「ちゃんと、取り戻しました」 田辺さんが視線を落とした。 琴美がまた泣いた。 隆一は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。 白い布が、祖母の顔に静かにかけられた。 病室の時計だけが、変わらず進んでいた。 廊下へ出ると、足元が少し沈むような感覚がした。 律がそこにいた。「朝霧さん」 その声を聞いて初めて、病室の外へ出たのだと分かった。「……泣けないんです」 口にすると、自分でも驚くほど平らな声だった。 律は答えるまでに間があった。「今じゃなくても、いいでしょう」「……あとからでも?」「さあ。あとから来るかもしれないし、来ないかもしれません」 それ以上の言葉はなかった。 背中に、壁の
なのに今聞くと、初めての言葉みたいに胸へ沈んだ。 廊下の向こうでワゴンの車輪が鳴り、消毒液の匂いが病室の隙間へ薄く流れ込んできた。「誰が何を言っても。血がどうでも。家の名前がどうでも」 祖母の指が、私の手の中で少し動いた。「誰かの代わりじゃない」 祖母の手を包む指に、力が入った。「……おばあさま」「隆一には、負けなくていい」 その名前だけが、酸素の音の中にはっきり残った。 祖母は目を開けなかった。「会社のため、家のため。あの子はずっと、そう言ってきた。でもね、栞」 酸素の音が大きくなる。「……人を使ってまで残すものじゃないよ。家なんて」 扉の外で、何かが小さく動いた気配がした。 田辺さんが振り返る。ガラス窓の向こうに、隆一の影が見えた。琴美もいる。いつ来たのか分からない。 祖母の声が、もう一度細くなる。「戻らなくていい」 私は祖母の手を握ったまま、頷いた。「戻りません」「でも、恨みだけで、生きないで」 握っていた祖母の手が、急に重く感じられた。 祖母は、私の痛いところをいつも一度で当てる。「腹が立つなら、腹を立ててなさい。泣きたいなら泣けばいい。でもね……それだけで終わらないで」 私は何も言えなかった。 涙が落ちる。 手の甲に当たって、祖母の皮膚を濡らした。「ごめんなさい」 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。 会いに来るのが遅かったこと。 もっと早く守り袋を取り戻せなかったこと。 祖母の知っていることを、今この場で全部聞きたいと思っていること。 どれも、たぶん本当だった。「謝るのは、私の方」 祖母が言う。「それから……」 田辺さんが少し身を乗り出した。 祖母の呼吸が浅くなっている。「封筒を、預けてあるの。田
祖母は、窓側のベッドにいた。 顔が小さくなっていた。酸素のチューブが頬を横切り、薄い布団の下で胸がゆっくり上下している。モニターの緑色の線が、規則正しく揺れていた。 モニターの小さな音だけが、病室の白さの中で妙にはっきりしていた。 その規則正しさが、かえって怖かった。 「……おばあさま」 声をかけると、祖母のまぶたが少し動いた。 すぐには開かない。 私はベッド脇の椅子へ座った。祖母に何から伝えるべきか迷い、バッグの金具に指をかけたまま止まった。 祖母の指が、シーツの上でかすかに動く。 私はその手を取った。 軽かった。 昔、私の髪を結んでくれた手だ。熱を出した夜に、額へ濡れタオルを当ててくれた手だ。階段事件のあと、誰も私の話を聞かなかった家で、最後まで私を見てくれた手だ。 その手が、今は私の指に引っかかるだけだった。 「栞……」 かすれた声が、酸素の音に混ざった。 「来ました」 「寒く、ない?」 祖母の指を握る手に、力が入った。 こんな時まで、祖母は私のことを聞く。 「寒くありません。……嘘です。少し寒いです。でも、手を握ってたら大丈夫です」 大丈夫、と言った自分の声が、ひどく頼りなかった。 祖母の目がゆっくり開く。焦点が合うまで時間がかかった。それでも、私を見つけると目が少し和らいだ。 「……きれいに、なったね」 「やめてください。今、それを言うなら、おばあさまの方です」 笑おうとしたのに、口元が震えた。 祖母も笑おうとして、息を吸い損ねた。田辺さんがそっと近づき、酸素の位置を直す。 私は慌てて手を離しかけた。 「いいの」 祖母の指が、かすかに私を止めた。 「持っていて」 「……はい」 私はもう一度、指を包んだ。 少し間が空いた。 窓の外は曇っていた。光が白くて、病室のものを全部薄くしている。花瓶の水も、ベッド脇の時計も、祖
救急入口の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが肺の奥まで入ってきた。 白い床に、靴音が薄く跳ねる。 車を降りる時、膝の上に落ちていた包み紙が床へ滑った。拾おうとした指が、うまく動かなかった。「そのままで」 律が短く言った。 私は返事をしないまま、バッグだけを掴んだ。相良さんが後ろで何かを拾う気配がしたけれど、振り返れなかった。 受付の横にいた看護師が、こちらを見るなり歩み寄ってきた。「朝霧さんですね。田辺です」 何度も祖母の病室で見た人だった。いつもは少し柔らかい声をしているのに、今日はその柔らかさを仕事の顔で抑えている。「主治医から説明があります。こちらへ」「祖母は」 言葉が先に出た。 田辺さんは足を止めなかった。「今は、処置のあとで落ち着いています。ただ、かなり厳しい状態です」 落ち着いている。 厳しい。 二つの言葉が並んでも、意味がうまくつながらない。 廊下の角を曲がる。自動販売機の低い音が聞こえた。誰かのスリッパが床を擦る音もする。病院はいつも通り動いているのに、私の足だけが遅れていた。 律は、少し後ろを来ていた。 車椅子の車輪の音はしない。 振り返りそうになって、やめた。 今それを見てしまったら、祖母のこと以外まで考えてしまう。 説明室の前で、主治医が待っていた。 眼鏡の奥の目に、寝不足の色がある。祖母の病状説明を何度もしてくれた医師だ。淡々としているけれど、事務的ではない。「朝霧さん。お祖母様ですが、先ほど急に血圧が下がり、呼吸も浅くなりました。酸素と点滴で一度持ち直しています」 持ち直している。 私はその言葉だけにすがろうとして、医師の次の間で手を離された。「ただ、もともとのご病状と体力を考えると、今後また同じ状態になった時、積極的な延命処置で回復が見込める可能性は高くありません。ご本人からも、苦しい処置は望まないという意思表示を以前からいただいています」 椅子の背もたれに、背中が当たった。 いつ座った
律は包み紙を膝に置いた。 律の声が少し低くなった。「今日、役員会で、私の名前を一度も使いませんでしたね」 何の話か分からず、律を見る。「榊の名前です。私を盾にしなかった」「使った方が楽だったかもしれません」「そうですね」 律は包み紙を折り直した。「でも、使わずに答えてました」 窓の外で信号が赤に変わる。車が静かに止まった。 私はサンドイッチの端を見た。「……それ、褒めてますか」「一応」「分かりにくいです」「すみません」 思わず鼻で笑い、もうひと口かじった。 卵の味が、少し戻った気がした。 肩の力も少し抜けた。 スマートフォンがバッグの中で震えた。 一度目は気づかなかった。 二度目で、ようやく画面を見る。 病院の番号だった。 包み紙を膝へ置き、通話ボタンに指を伸ばした。 指がすぐには動かなかった。 律がこちらを見る。「病院からなら、出た方がいい」 私は頷いた。 通話ボタンを押す。「朝霧です」 声が小さくなった。 受話口の向こうで看護師が名乗った。 何度か病室で会った田辺さんだった。『朝霧さん。突然すみません。お祖母様のことで――』 田辺さんが言葉を選ぶ間に、膝の上の包み紙を握っていた。 普段の落ち着いた声より、言葉の間が短かった。『先ほど、血圧と呼吸状態が急に悪くなりました。主治医が対応しています。可能でしたら、すぐ病院へ来ていただけますか』 周囲の音は聞こえているのに、意味が頭へ入ってこなかった。 手の中のサンドイッチが、包み紙ごと潰れていた。 私はようやく返事をした。「……行きます」 声を出すのに、何度か息を継いだ。 通話を切る前に、田辺さんがもう一度、急がなくていいと言った。足元に気をつけて、とも言った。
「それも、少し落ち着きません」 律は一度だけ目を細めた。「では、嬉しいというところだけ受け取ります」 私は黙って頷いた。 エレベーターの表示が一階を示した。 扉が開く直前、口元が緩むのを止められなかった。 律が気づいた。 私はすぐに正面を向いた。「見ないでください」「見ていません」 明らかな嘘だった。「今、見てました」「……訂正します。見ました」 謝られると、今度はこちらが困った。 扉が開く。 ロビーのざわめきが流れ込んできた。 人の声、靴音、受付端末の電子音。 短い会話はそこで終わった。 律は何もなかったように車椅子を進めた。 私はその隣を歩いた。 手は触れない。 さっきより歩幅を合わせやすかった。 榊の車に乗り込むと、窓の外は薄く曇っていた。 雨が降るほどではなく、ビルのガラスに雲の白がぼやけて映っている。 後部座席の中央に、小さな紙袋が置かれていた。 シートベルトを締めてから気づいた。「何ですか、これ」「役員会の帰りに食べるよう、宮野が持たせたものです」「榊さんが?」「いえ。あなたに」 紙袋を開くと、薄い包み紙にくるまれた小さなサンドイッチが入っていた。具は卵とハム。派手ではない。むしろ、会議室の料理よりずっと気が抜ける。「会議中、ほとんど食べていなかったでしょう」「気づいてたんですね」「同じテーブルでしたから」 言われてみればその通りで、私は包み紙へ目を戻した。「食べられる分だけで構いません」 私は包み紙を少しだけ開いた。 卵の匂いがした。コンビニの廃棄前のサンドイッチとは違う、やわらかい匂いだった。 ひと口食べる。 ひと口飲み込むと、空腹だったことを身体が思い出した。「おいしいです」「宮野に伝えます」「榊さんは食べないんですか」
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし